ドアは何の為に存在しているのか。

こんにちはstaffの山本です。数日前にデザイン系の大学を出た知人と食事をする機会がありました。
学生時代の話に花を咲かせるなか、大学で受けた講義の話のなかに興味深いものがありましたので紹介します。

 

「ドアは開けるために存在しているのか、閉じるために存在しているのか」

 

というテーマでレポートを作ってディスカッションする授業があったそうです。
知人は「閉じるために存在している」方を選んだようで
理由としては、外から中を守るために出来た物で閉じ込める道具だからという事でした。
けれども、その講義で過半数の生徒が選んだのは「開けるため存在している」だったようです。
理由の一つに、そう捉えた方が楽しいからというものがあり
ドアに対してその見方は自分の中に無かったなと思いました。
結果としては「閉じるために存在している」が正解のようです。

 

私なりに「ドア」とはどんな存在か考えてみましたが
どんな場面で誰がドアのどちら側に立っているかで捉え方が変わるような気がします。
例えば「壁」は間に隔てれば自分を守ってくれる存在ですが、目の前に立ち塞がれば苦難の象徴です。
けれどもお施主様へ新居をお引渡しするときは、お施主様にとってその真新しい「ドア」は
その先の新しくも楽しい日々が「開かれるドア」であったらいいなと思います。

 

朝の通勤通学で出入りをする際、ドアの前に立った時
一日のスタートとしてドアを開けるのか
大事なモノを守る為にドアを閉じるのか
あなたは目の前のドアをどう捉えますか?